秋田銀線細工の歴史

久保田城

秋田銀線細工の創始

銀線細工創始の年代や経路の詳細は不明だが、平戸(長崎県平戸市)にポルトガル※1から手法が伝えられたことが始まりとされており、長い年月をかけて秋田へ受け継がれていったといわれている。

※1 『秋田市指定文化財要項』(1996)には「オランダ人が銀細工の手法を伝えたのが始まりとされている。」と記載されているが、オランダよりも先に、ポルトガル(1561年)が平戸へ来航していること、インド・マラッカ・インドネシア等にもフィリグラーナを伝えていること、カトリックの銀細工師がいたこと等からポルトガル説が有力と考えられる。ただし、中国から伝わった可能性もあるため、断定は出来ていない。

江戸時代

秋田市を生産地とする金銀細工は、今は年額七拾五萬圓に達し国産として其の名聲世に喧傅せらるるに至れり。
相傅ふ延寳元年羽州庄内の住人鈴木重吉江戸に遊びて正阿彌の名字を免許せられ後久保田城下に来り、佐竹氏の為に刀剣付属具の製作に従事す、之より子孫相続して諸種の金銀器の製作に従事し、その子孫が引き続き諸種の金銀細工製作するに至れり、之を秋田金銀細工の濫觴となす。※2

ー 『秋田懸産業調査参考書』 秋田県発行 (1923年) ー

秋田銀線細工は慶長7年(1602)に佐竹義宣(よしのぶ)が常陸から秋田へ国替えになった際、金銀細工師を連れてきたのが始まりとされている。
院内・阿仁等の銀山から産出する良質な金・銀を使用し、歴代藩主の保護奨励の下、刀装具や装身具等の細工物の製作が盛んに行われてきた。
独自の金工技法を考案し、秋田正阿弥派を確立させたといわれる名工・正阿弥伝兵衛(本名:鈴木重吉)は、江戸の武州正阿弥流・正阿弥吉長の弟子となり、延宝元年(1673)、秋田藩士 舟尾靭負に仕えるうちに、出羽久保田藩の第3代藩主・佐竹義処(よしずみ)に鐔工(つばこう)として召し抱えられた。
佐竹義処のころは、初代藩主義宣以来の秋田城下の町割も完成し、藩制もようやく整備されたころであり、刀工の法城寺正照、法城寺永国などと共に、刀装担当の工人として迎えられたと言われている。
その後、五十年近くにわたって藩主佐竹家に仕え、久保田城下で武具等の金銀細工を製作すると共に指導にあたり、多くの名工を輩出し、秋田金工の基盤を築いた。
秋田藩(久保田藩)と平戸藩の江戸屋敷が近隣し※3親交があったと言い伝えられており、その時代の名残か、秋田銀線細工は別名「平戸細工」、銀枠にはめ込む渦巻き状のパーツは「ヒラト」と呼ばれている。
 「金銀細工」と「銀線細工」の違い
 戦前は、同一業者が銀線細工他、金・銀の鍛金・彫金製品をつくっていたことから、金銀の細工物は全て「金銀細工」と呼ばれていた。
線条の細工物を「銀線細工」と呼び分けるようになったのは戦後以降であるため、『秋田懸産業調査参考書』に記されている「之を秋田金銀細工の濫觴となす。」の一文も、秋田銀線細工に限った起源ではなく、秋田金工の始まりと捉えるのが妥当である。

※2 濫觴(ランショウ)…物事の起こり。始まり。起源。
※3 秋田藩(久保田藩)佐竹家上屋敷は当初、内神田佐竹殿前(現・佐竹稲荷神社、千代田区内神田)にあったが、1682年の江戸大火の影響で1683年には現在の台東区の地に移転している。平戸藩松浦家上屋敷は浅草鳥越(現・台東区浅草橋5丁目)に約0.8km徒歩10分の距離。

明治・大正

明治9年(1876)、廃刀禁止令により武士階級の需要がなくなり、保護されていた藩鍔師の秋田正阿弥派や白銀屋とよばれた職業の金工師が失職。それに代わり装身具などの庶民需要が生じ、錺職(かざりしょく)により銀線細工が盛んに造られるようになった。
秋田の銀線細工は名古屋打ち※4の簪に平戸の繊細な銀細工技法が導入されたことにより、秋田独自の金工品となったと考えられている。
明治19年(1886)の俵屋火事や不景気の打撃をうけ一時衰退するが、明治末期には竹谷本店 初代 竹谷金之助の指導により優秀な職人が輩出されると同時に、第一次世界大戦当時の好景気に支えられ、再び盛況を取り戻した。
※4 名古屋打ちの簪…琴柱の形をした、足の股の間が広いもので、若い女性に流行した。名古屋が主産地だったことからこの名がついた。

昭和

昭和15年(1940)、銀製品が奢侈品等製造販売制限規制(7・7禁止令)の対象となり製造販売禁止となったため、軍需要品の製作に徒事した。
その後、新活路開拓を目的とした秋田市アルミニウム工業組合を組織。銀の代用品としてアルミを使い、従来の技術を活かしつつ工芸品を製作したと記録されている。
こういった時代背景から、一時消えかかったが、戦後は秋田県工業指導所(現工業技術センター)の指導や、秋田市工芸学校が技能者育成に当たる等して進展してきた。
また、東京で修業を積んだ川久保藤一郎 氏が竹谷本店へ就職。若手の養成に努め、業界に大きく寄与した。装身具中心の業界にとって当時画期的だった「銀線画(額)」を創案し、高い評価を受けた。

昭和30年(1955)に国の文化財保護審議会は「記録作成等の措置を講ずるべき無形文化財」(別名:選択無形文化財)に選択され、伊藤徳太郎 氏、高坂水雄氏が対象となった。
その頃、銀線細工ブーム到来し、業界は技術者不足に悩み、秋田公立美術工芸短期大学内に「銀線細工科」を置き一般人を指導したとの記録が残っている。

平成

平成8年(1996)2月26日、秋田銀線部会((株)竹谷本店、(株)細川貴金属店、金銀線工房しんどう、和田貴金属店、(有)伊藤貴金属店、銀線細工すとう、篠田宝飾、豊島宝飾)は、「秋田県伝統的工芸品」に指定された。
同年3月11日、秋田銀線細工の技術保存と後継者育成、地場産業振興に努めるべく細川久之助氏、須藤 至氏、進藤 春雄氏、阿部 武氏、熊谷 雪雄氏、5氏により結成された「秋田銀線細工技術伝承保存会」が「秋田市指定無形文化財」に指定された。
近年はブローチ、ペンダント等のアクセサリー類が多く製作され、秋田市の特産品として根強い需要に支えられているが、指先だけの緻密な手作業な為、後継者不足が問題となっている。

秋田銀線細工の由来

銀線細工と同じようなものは、江戸時代にすでにヒラト細工という名前でかなり普及していたらしい。
日清、日露の両戦争に勝った当時、人々は好景気にわきたっていたので、装飾品であるカンザシも大きく複雑なものが好まれ、銀線細工も流行に乗った。
以前から板銀と銀線を組み合わせて花形や花模様のついたカンザシはあったのだが、大きくなるにつれて板銀の量を少なくして銀線を多く使って作るようになったのが繊細な美しさをもつ銀線細工のはじまりという。

ー 『県内人間文化財めぐり 最後を守る人々 精魂傾けた六十年 銀線細工の伊藤徳太郎さん』秋田魁新報(1957) ー

上記の内容から、秋田銀線細工の起源とされている平戸細工は、江戸時代には秋田へ伝わっていたものの、その時点では金工技法の一つに過ぎず、盛んに作られるようになったのは日露戦争(明治38年)以降であると推察できる。
明治以降も、大正、昭和初期までは、技法問わず、金銀で作られた細工物は全て「金銀細工」と総称で呼ばれており、線条細工を「銀線細工」と区別するようになったのは、戦後(昭和20年)以降である。
戦後間もなくして、高坂水雄 氏(選択無形文化財・現代の名工)が日展に二回連続で入選したことで、「秋田に“平戸”をしのぐ銀線細工あり」と全国に知られるようになった。

【参考資料】
『お宝発見ハンドブック 秋田の宝・おらほの宝 ―地域の文化遺産発見―』秋田県教育委員会(2007)
『新秋田叢書 第711巻』今村義孝・監修/井上隆明・編(1971~72)
『手のひらの仕事 岩手・秋田・青森・』奥山 淳(2004)
『秋田県史 第5巻』秋田県(1964)
『秋田市史 第15巻』秋田市(2000)
『秋田さきがけ新聞』(1941)
『秋田さきがけ新聞』(1957)
『秋田さきがけ新聞』(1971)
『結うこころ -日本髪の美しさとその型 江戸から明治へ-』村田孝子(2000)ポーラ文化研究所
『広報あきた No.792 秋田市文化章 六氏の功績をたたえて 』秋田市企画財政部広報広聴課(1979)
『あきた経済、20~31号』秋田経済研究所(1981)
『秋田市内指定文化財等件数一覧表』秋田市観光文化スポーツ部文化振興課
『平戸市史 海外史料編3 平戸オランダ商館の会計帳簿「オランダ商館仕訳帳 1640年 訳文」』平戸市史編さん委員会(1998)
『平戸オランダ商館日記―近世外交の確立』永積 洋子(2000)
『金銀細工師の生活』塚原美村(1973)
『あきた(通巻252号)あきたの文化財26 無形文化財銀細工 ―秋田市― 』 秋田県広報協会(1983)
『あきた(通巻53号)秋田県工業試験場』秋田県広報協会(1966)
『ホットアイあきた(通巻393号)』秋田県広報協会(1995)
『県内人間文化財めぐり 最後を守る人々』秋田魁新報(1957)
『秋田懸産業調査参考書』秋田県(1923年)
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